塗師文化
 15世紀前半には、小規模な産地が形成されていたと考えられる輪島塗も、全国にその名が知られるのは、江戸の文化・文政の頃です。この時代には塗師屋が顧客へ直接販売する自作自売のスタイルが定着していました。
塗師屋は全国を旅することで、最新の文化情報を有し、その教養を持って顧客先では「輪島様」と呼ばれ、文人、墨客の扱いを受けていました。
塗師屋は顧客の期待に応えるべく、旅から帰ると仲間と共に文化教養の研鑽に努めました。このことは当然、物づくりに活かされ、輪島塗と云う文化産業の発展に大きく寄与しました。
塗師たちが各地より持ち寄った文化は、輪島で塗師文化として醸成され、今日も輪島独特の町家建築や食文化、および多くの年中行事に伝承されています。

職人気質と輪島塗
輪島塗の制作は多くの時間と工程を費やします。そのため、レストランの味が違うように、工房・工人によっては技の熟練度や材料の吟味に違いがあり、仕上品に差があるのは事実です。
しかし、この差こそ輪島塗発展の要素である物づくり競争を産み出しました。文化教養の高さを旨とする塗師屋の親方の物づくりの姿勢は、そのまま製作現場の職人気質を作り出しました。
誰にも負けない物づくりこそ、職人気質の面目躍如たるところです。負けじ魂は研究心を盛んにし、人の真似のできない物を作りたいという職人気質が輪島塗の技を高めました。
又、職人たちは無類の粋な遊び好きでした。遊びは文化であり輪島塗は文化産物です。
輪島塗は機能の器ではなく趣味の器とも云われます。粋な職人気風は物づくりに反映されました。

塗師屋〜文化プロデューサー〜
 輪島塗は文学や絵画のように個人の能力によって表現される芸術品と違い、演劇やオーケストラのように大勢の才能の結集によって生まれる芸術品です。そのため、輪島塗の製作には分業の専門家を束ねるプロデューサーが必要となります。
塗師屋は材料の吟味、意匠の指導、技術のチェック、他に商品企画そのものを行います。名品誕生は、塗師屋の感性と理念によって生まれます。史上名高い国宝の船橋や八ッ橋の硯箱の作者は、光悦・光琳と知られていますが、彼らはプロデューサーとして非凡な才能を発揮したのです。
塗師屋に求められるのは、光悦や光琳のような総合的な芸術プロデュース力です。かつて輪島には塗師文化と呼ばれた独自の文化があり、芸道や食空間にひときわ光彩を放っていました。

輪島町屋〜塗師屋造り〜

 塗師屋の家には、独特の塗師屋造りと呼ばれる職住同居の建築が少なくありません。
その特徴は平面配置にあります。住居が前方で、作業場が後方と云う人前職後の配置パターンです。一般の町家はこの逆で、機能性の高い職前人後が普通です。
何故このような配置になったのでしょうか。輪島塗は文化産物です。文化産物は文化背景無しには産まれません。前の住居部分を文化的空間とし、毎日、職人達はその文化的空間を通り、奥の作業場に向かいます。職人達は文化を皮膚で吸収し、輪島塗の製作に生かしました。
明治の塗師屋造りには、江戸や京の町家をしのぐ建築美を持った家もありました。塗師屋造りの家は、優れた輪島塗を育むステージとして塗師文化を構築していたのです。

地の粉発見と塗師祭〜地の粉祭〜
 輪島塗が丈夫な理由は、地の粉を使用するからだといわれています。現存する輪島地の粉を使用した最も古い漆器は、室町前期の線刻椀です。そして現在とほぼ同じ工法が確立するのは、江戸・寛文年間のころです。塗師祭は、寛文年間に、「かつて、この地の粉は神のお告げにより発見された。神と先祖に感謝し、今後共、良い漆器を作ろう」と誓い合ったのが始まりと考えられます。
現在も6月に地の粉山では、塗師祭(地の粉祭)が行われています。感謝と祈願の塗師の祭は、かつて塗師屋の年中行事の中では、最も大切な祭として、漆器関係者こぞって参拝し、昭和30年ごろまでは、御神燈のキリコが地の粉山の急坂を登りました。
塗師祭(地の粉祭)は、先人の苦労に想いを寄せ、更なる精進を誓う重要な祭です。

技の伝承〜年季明け〜
 高度な技の伝承を必要とする輪島塗を支えてきたシステムは、年季明けと呼ばれる徒弟制度です。
弟子の修行期間は明治で8年、昭和初期で6年、現在は4年間です。修行は行儀見習いから始まり、工房の清掃、仕事の準備といった雑用、そして作業助手を勤めながら技を修得し、弟子の期間が終わります。
年季明けは、職人としてのスタートを祝う儀式で、職人にとって生涯最大の行事として認識されています。式では、親方との間で親子固めの杯が交され、親方家の紋服袴一式が授与されます。
以後、職人は○○家の年季明けとしての誇りを持ち、同門の恥とならぬように技の研鑽に励みました。年季明け制度は結果として、輪島塗の技術を高めていきました。

輪島塗が作った美林〜アテ〜
 輪島市・三井の山間地は、輪島塗の材料である石川県木のアテ(ヒノキ・アスナロ)の美林で知られています。
意外なことに、能登に古くから自生しているアテですが、三井に植栽されるのは、明治以降のことです。長く三井地域は土質が悪く経済品種の樹木の植林に不向きな土地とされてきました。
しかし、近代の輪島塗の発展が、輪島近在のアテだけでは不足をきたし、試しに三井地域で植栽したところ、不毛の地がアテの適地とわかりました。
明治から今日まで、三井の林業家は、このアテに並々ならぬ愛情をそそぎ、独自の植栽と造林の技術を生み美林を作りました。湿気に耐え、強く美しいアテは、ヒノキに劣らない木として、輪島塗の材料の外に建築材でも高い評価を受けています。


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